1973年~2004年31年間、城西大学附属城西中学高等学校で教鞭をとられた三川一夫先生のインタビューです。
数学を指導してくれた三川先生と再会したのは高円寺にある紅茶専門店「Tea room Orange Pekoe」実はこのお店、三川先生の長男のお嫁さんが営むお店。豊な紅茶の香りに包まれ、今回は懐かしいお話を聞いてきました。
城西大学附属城西中学高等学校に就職したきっかけ
三川先生は、大学を卒業後(昭和46年)なんと!フリーターをしていたそうです。真面目な印象が強い三川先生がフリーターって意外だと思いませんか?この時代にフリーターって…今時の若者の先駆けですね(笑)
しかし、先生曰く「親の目が厳しくてマズイ!」と感じ、一念発起し教員免許取得、そして、城西へ。
面接に来られた時、運命の再会があったそうです。高校の同級生にばったり再会。誰だと思いますか?その人は「大道先生」三川先生が、城西に来られることは運命だったのかもしれません。
在任中の思い出
晴れて城西大学附属城西中学高等学校(当時は高等学校のみ)で教鞭をとることになった三川先生、教諭とし生徒達へ熱い指導を…と思った矢先、結核を患い8ヶ月の闘病生活を余儀なくされることになりました。
病気を克服して復帰したのは翌年、昭和49年(1974年)、城西が初の甲子園出場を果たした年です!
その後も昭和54年(1979年)にも甲子園に出場しベスト8まで進出。
これには学校も大盛り上がり、先生方も生徒たちも保護者の方々も全員で球児たちへ熱い応援を送ったみたいですね。
教師と生徒が信頼できる関係へ
昭和48年(1973年)城西大学附属城西高等学校と改称していましたが、平成3年(1991年)中学を再開することに。
当時の教頭である加藤友博先生を中心にプロジェクトが組まれ、三川先生も参加。学校の理念の元、生徒達の充実した学校生活、育成を念頭に置き、先生方は、日夜会議を重ね中学校を再開させたのですが、相手は中々手強い多感な年頃の生徒達。その歩みは、スムーズだったとは言いがたかったようです。
在任中、中学校の担任として3期分のクラスを受け持った三川先生、思春期真只中の生徒達への対応に苦労。自立心からくる反抗、悩んだり、苦しんだり、様々なことを体いっぱいに吸収する彼らへの指導は手探りだった為、いろんな問題と直面することに。
先生は、生徒達との信頼関係構築のため心を砕きました。構えずコミュニケーションを積極的にとり、垣根を超えること、より一層、誠実に生徒と向き合う、生徒を敬い、周囲を敬う、一度、拗れた信頼関係を構築することは本当に大変なこと。皆さんもご存知だと思います。クラスの中に良い”連鎖反応”を生むことに奔走した三川先生。その成果が実り、特に反発の強かった女子生徒とも時間は掛かりましたが信頼関係も築くことができました。
卒業式、万感の思いで彼らを見送ったのは今でも心の中に大きく残っているそうです。
現在の三川先生
平成15年(2004年)54歳で城西を退職なされフリースクールのボランティアに参加、ご自身でもフリースクールを立ち上げ、東邦大学でも5年間教鞭をとるなど、精力的に活動されていました。先生は現在(2016年8月現在)も日大理工学部で元気に指導にあたられています。
優しい物腰に几帳面で真面目な先生はあの時のまま。今も当時を振り返っては、懐かしく思ってくれています。
連絡がとれなくなった生徒のことを今でも気にかけてもいらっしゃいました。
近年、Facebook等のSNSの普及により、生徒達との交流が出来ることを喜んでおられ、何年経っても私達の成長を見守って下さっています。
是非、皆さんも先生と繋がってみてはいかがですか?
三川先生 face book アカウント →https://www.facebook.com/mikawa9522?fref=ts
快くインタビューに応じていただけたこと心からお礼申し上げます。
今回のインタビューを通し、生徒は自分の所属するクラスに愛着を持つだけでなく、居場所を求めようともします。三川先生はその「居場所」を心地よいものにしようと、生徒、ひとりひとりの心に寄り添ってくれてたんだなと思いました。
問題にぶつかった時、信念を持ち行動する、先生が生徒との信頼関係を取り戻そうとする発言や行動には迷いがなかったのではないでしょうか。その覚悟は生徒達への責任を果たして下さったと私は思います。
どんな時でも、生徒を信じ、手を差し伸べてくれた三川先生。
いつまでもお元気でいて下さい。また、お会いできる日を楽しみにしています♪
撮影日 2016/8月某日 撮影協力 Tea room Orange Pekoe (杉並区高円寺南1-32-11 リヴィエール1F)