INTERVIEW#06

高橋 慶彦

元城西高校 硬式野球部OB

広島東洋カープドラフト3位指名 城西高校初のプロ野球選手の輩出

城西高等学校のエースで4番、甲子園という唯一無二の夢を叶え、今もその存在の大きさを示してくれる元プロ野球選手、高橋慶彦さんにインタビューを行いました。

1974年(S49年) 当時17歳 背番号 1
城西高校が初めて甲子園に行った時の選手であった。

何千回、何万回数え切れない程バットを振り、走って走って走り込んだ。
どんなに苦しく辛くても、もがきながら夢に向かい己を戒め励むことを怠らず、ただひたむきに努力を重ねて掴み取った甲子園。

プロに入団した後も広島東洋カープの黄金時代を支えた立役者の一人。
その活躍は伝説として今も語り継がれるほど。
恵まれた体格ではなかった高橋さんでしたが、努力の末赤ヘル機動力野球の申し子と多くのファンに親しまれ1970~1980年代には3度の盗塁王、1979年には、33試合連続安打という輝かしい日本記録を打ち立てた。
その姿は、のちに広島を支える後輩達はもとより、日本球界においても大きな影響力を与えたと言われています。


高橋 慶彦さん 還暦パーティーにて

城西学園の後輩達へ

まずは今現在、甲子園に向かって頑張っている後輩たちへ応援のメッセージをもらいました。

『夢、目標を持って覚悟の努力をしろ』

『夢を持つことは苦しさを乗り越えられる一つの方法』

 

夢・目標を持つ、そして、叶えるためには

高橋少年の当時の夢は甲子園出場
『夢を持ち叶える為には、必然的に努力が必要となるよね。“努力”と言っても、ただ頑張るのではなく「覚悟の努力」が大事になることだってあって…』
高橋さんは青春のすべてを野球に捧げ、歯を食いしばって覚悟の努力を貫きとおした。
人知れず陰で涙したこともあったのではないでしょうか。見上げる壁の高さに肩を落としたこともあったかもしれません。
けれど不屈の精神、覚悟の努力で乗り越えた先にあったものは…
高校球児にとって憧れの舞台・甲子園。高橋さんの夢もまた甲子園出場でした。その為に青春時代を捧げた3年間。ですが、高橋さん一人が頑張っていた訳ではありません。

確かに人の何倍も努力はしていました。けれど…
『大きな夢に向かい仲間と同じ方向を向いてきた。だが、チームと単体の温度差はあったよね。』
時には意見の食い違いもあったでしょう。全員が全員一定のモチベーションを保ち続けることも難しいと思われます。
『人間はどうしようもないものだから…、自分がどんなスタンスで努力しているかが重要なんです。』
同じ夢を追う者同士、時にはぶつかり、叱咤し励ましあいながら「覚悟の努力」を積み重ねた日々。
『自分がもがいていたことは周囲も気がついていたと思いますよ。けれど、自分一人で甲子園に行けた訳ではない。やっぱり同じ方向を向き頑張ったみんなで行けたんだと思います。』

城西学園にとっても初めての甲子園。今でも当時の先生方の記憶にはっきり刻まれていることは過去のインタビューを見ても分かります。
仲間と共に踏んだ甲子園の土、スタンドで声援を贈る先生方、生徒、保護者、誰もが歓喜の声をあげた最高の贈り物。みんなで同じ方向を向き高みを目指せた。その時の仲間への感謝の気持ちは今でも高橋さんの心の中に強く残っています。

『夢・目標を持つことですね。夢は目標になる。目標に向かい努力することかな』

高橋さんは、自分の中に確固たる信念を持ち足を止めることなく邁進し続けたのです。
野球だけに限らず生きていく上でも大切なことを、私達に教えてくれているのではないでしょうか。

努力の仕方

努力にも色々あるでしょう。では、高橋さんが考える努力の仕方を聞いてみました。
高橋さん曰く、重要になるのが「指導者」
先生でも先輩でも、監督でもコーチでも導いてくれる人が必要だと言います。
秦さんが僕を引っ張ってくれた。そのお陰で甲子園という夢ができた』と
高橋さんは、城西に導き夢を与えてくれた恩人に今も感謝の気持ちを忘れていません。
『みんな努力の仕方って分かんないんです。でも、伝統校は努力の仕方を知っている、方向性を示し導いてくれる』
目標を持った者が毎日、地道な努力を重ねる。
『伝統校は経験値の違いもあるが正しい方向に導いてくれるんですよ。正しいノウハウを持っている指導者達。いくつもの提案をしてくれ、こういうやり方があるよ。これどう思う?これどうかな?と多種多様な道を示してくれるんです。』と言う
そのすべての道の先に、目指す夢があるのだ。
高橋さんは、1日の中にある勿体ない時間。例えば、携帯をボーッと見ている。テレビを見ている。1日の中にあるグレーゾーンの時間。この時間をいかに有効活用できるかが大切だと言います。どう夢に繋げていくのか…決めるのは自分自身です。

『「下手は上手くなる」と僕は思っている。』

初心者でも、苦手なことでもコツコツ努力を重ねれば着実に力は付いてくる、下手はどんどん上達してくる。
高橋さんも昔は下手から始めたのかもしれません。しかし、覚悟の努力を積み重ね一流の選手になったこと。その背中で私たちに示してくれました。
プロになった高橋さん、地道な努力は変わりませんでした。練習の虫と言われる程、朝から晩までバットを振り続け、食事や寝る時すらバットを手放さないほど。辛い練習も、結果が出ない日も諦めない気持ちでマイナスをプラスに変え続けてきたのです。

それは、高校時代に培われた「覚悟の努力」そのままなのでしょう。

思い出の恩師

高橋さんの思い出の恩師は当時の校長・新藤宣夫先生。
野球漬けの毎日を送る高橋さんら野球部を支え、校長自らベンチの中に入り大きな声で声援を送り続けた。
野球だけをみつめていた高橋さん。当時、新藤先生と個人的に触れ合うことは少なかったそうですが、『野球がすごく好きで理解があり時に優しく、時に厳しい眼差しで見守り続けてくれたことに、今でも感謝ですよ。』と懐かしそうに語ってくださいました。

今後の城西学園に期待すること

『これからも城西高校を卒業したと胸を張って言いたい』
『僕は城西を誇っている』という高橋さん
『学校を良くしようとすることはすごくしんどいと思う。けれど、このまま満足せずどんどん進化していってほしい「城西に行きたい」という声が多くあがるような魅力ある学校になる為にも先生方には期待していますよ。』

学び舎で過ごした青春の日々、城西学園を卒業したこと今でも誇りに思ってくれている…最高の誉め言葉ですね。
今、帰路に立っている人、迷っている人、様々な気持ちの方々がこの記事を読むことでしょう。
終始、和やかな雰囲気の中で行われたインタビュー。
笑顔の中にも真剣な眼差しで私たちにアドバイスを贈ってくれた偉大な先輩。
その先輩の言葉で光が灯るかもしれない。
目指す場所を見出すことができるかもしれない。
そんな恩恵に与ることができる私たちはとても幸せだと思いませんか。

創立100周年に向けて

最後にお祝いの言葉いただきました。
甲子園に行けたこと、プロ野球で活躍することができたこと
“高橋慶彦”の根底を作ってくれたのは、城西です。
心から感謝しています。
創立100周年…100歳のお誕生日、本当におめでとうございます。